「田中長者」伝説の地、太宰府市都府楼南

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「家が千軒、蔵が千軒

福岡県太宰府市には「田中長者」の話が伝わっています。

昔、現在の太宰府市通古賀(とおのこが)に田中長者が住んでいました。田中長者は大変な金持ちで、広大な敷地に屋敷と田畑を持ち、村の子供たちは「お家が千軒、お蔵が千軒、田中長者は金持ち長者、お米の山に金の山」と歌っていました。

ある日、隣村の虎丸長者が1,000人の家来を引き連れて大宰府のお寺にお参りに行きます。その帰り道、にわかに雨が降り出したため、田中長者の屋敷に避難し、「傘を1,000本貸してください」と頼みます。すると、田中長者は蔵の中から新しい傘1,000を出させ、快く貸してくれました。

いきなり「傘を1,000本貸して欲しい」と言われて困ってしまう田中長者の顔を見たいと思ってた虎丸長者としては、田中長者がいとも簡単に1,000本の新しい傘を出してきたことが悔しくてなりません。

翌日、虎丸長者は田中長者に傘を返すのですが、こんどこそ困らせてやろうと、また1,000人の家来を差し向けます。長い行列の最後の一人が田中長者の屋敷に着いたのは昼過ぎでした。

すると田中長者は、1,000人の客を座敷に通し、「よくおいでくださいました。ご飯を炊きすぎて困っていたところです。たくさん召し上がってください」といって、虎丸長者の家来1,000人をたいそうもてなします。しかも、余ったご飯で握り飯を握り、虎丸長者の家来たちにお土産として持たせます。

これには、家来たちだけでなく虎丸長者もびっくりするというお話です。(『広報だざいふ』2006年4月号の内容を編集しました)

この「田中長者」の伝説は、人気テレビアニメ「まんが日本昔ばなし」で、「田中長者」のタイトルで放送されました。

実は、前出の『広報だざいふ』2006年4月号では、田中長者の話の基になったのが、『王城神社縁起(おうぎじんじゃえんぎ)』に記されているとして、その記述を紹介しています。

「昔武蔵ノ長者、王城大明神に参詣(さんけい)せし時、俄(にわか)に雨降りて笠一ツ宛(ずつ)持せ返しけるとなり、田中の森、・・・」。

田中熊別の子孫が住んだ地

この田中長者が住んでいたとされる地を訪れてみました。

西鉄電車に乗って、「都府楼前駅(とふろうまええき)」で下車。南に向かい県道505号線(朱雀大路)とぶつかった交差点「通古賀」を右折すると鷺田川(さぎたがわ)に出ます。この鷺田川(さぎたがわ)に架かる橋が「田中橋」で、橋を渡ったあたりが都府楼南1丁目。橋に近い一帯は「小字田中」となっています。

この辺りに田中長者の屋敷があったようです。小字田中の中には「田中の森」という小さな森があり、別名「西の陵」とも呼びます。ここは、田中長者の先祖である「田中熊別(たなかくまわけ)」という人物の墓とされています。熊別の子孫は、田中長者の屋敷に代々済み、西の陵に熊別の霊を祀り、守っていたのでしょう。

田中氏が社司を司った「王城神社」 

次に、田中熊別と関係の深い「王城神社」に向かいます。神武天皇が東征の折りに四王寺山の山頂に城を構えると、県主であった田中熊別が軍師として警備を任せられます。また、熊別は東夷征伐の武運を祈願した神社の祭主を務め、後に国衙庄(通古賀)に下向したとされる人物です。

田中の森から南東の方向に10分余り歩くと、「王城神社(おうぎじんじゃ)」があります。

王城神社は、事代主命(ことしろぬしのみこと)(恵比寿神)をお祭りする由緒ある神社です。

元々、神武天皇が四王寺山(しおうじやま)に城を築いた際に武甕槌命(たけみかづちのみこと)と事代主命をまつったことに由来します。

天智天皇4年(665)に、現在の通古賀に移されました。『王城神社縁起』には、この王城神社の社司は長い間、田中家が司っていましたが、その後、田中氏が絶えたため、別家の陶山氏、松田氏、権藤氏、冨永氏などが祭りを執り行っていたと記されているようですから、田中家の方々には縁のある神社といえます。

境内には、田中家と関係がある史跡などが残っています。拝殿の左側から入ると奥に「早馬(はゆま)大明神」を祭ったお社があります。このお社には、田中長者の先祖と言われる田中熊別の子孫が祭られているようです。また、「田中橋」の改修工事を行った際の石碑も残っています。

田中さんと関係者には一度は訪れていただきたい神社です。

(王城神社:福岡県太宰府市通古賀5-8−40)

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