田中与四郎(千利休)
基本データ
出身地: 和泉国堺(大阪府)
生年月日: 1522(大永2)年
没年月日:1591(天正19)年2月28日
家紋:利休独楽
田中家は代々、足利将軍家に仕えていた。利休の祖父は千阿弥といい、室町幕府8代将軍足利義政に仕える同朋であったという。
利休は、17で北向道陳に師事し、茶湯の世界に入る。その後、道陳の紹介で武野紹鷗に師事する。利休は茶湯の才を発揮し、茶会を開く。茶会には、茶人や有力者などが出席し、利休は名声を高める。
1570年(元亀1)年、堺の豪商今井宗久の紹介で織田信長に会い、茶を点てる。4年後には信長の茶頭を務めるまでに引き立てられる。信長亡きあとは、豊臣秀吉に重用され、秀吉が催す茶会で茶頭を務め、秀吉の側近に登りつめる。侘茶を完成させ「茶聖」と呼ばれる。秀吉の弟秀長に「内々のことについては宋易(利休)に、公のことについては私(秀長)が受け持っている」言わしめるほどの権勢を誇った。しかし、1591(天正19)年1月、よき理解者であった秀長が亡くなると、1カ月後、秀吉との関係が悪化、自害する。
利休には多くの弟子がいた。その弟子たちが利休の茶湯を後世に残し、現在に伝えている。
千利休年譜
1522(大永 2)年 堺の豪商、千(田中)与兵衛の子として生まれる。
1538(天文 7)年 北向道陳に茶湯を師事。
1540(天文 9)年 道陳の紹介で武野紹鷗の弟子となる。
1570(元亀 1)年 織田信長の前で茶を点てる。
1574(天正 2)年 信長の茶頭となる。
1583(天正11)年 豊臣秀吉の大阪城での茶会で茶頭を務める。
1585(天正13)年 禁中茶会に出席。
1587(天正15)年 北野大茶会で茶頭を務める。
1589(天正17)年 大徳寺に山門を寄進。
1591(天正19)年 1月、大徳寺の山門を寄進した利休に対する礼として寺が山門の上に設置した利休の木造が問題となる。2月28日、自害。享年70。
参考文献等
『別冊太陽 千利休 「侘び」の創造者』(平凡社)