田中吉政

田中吉政

基本データ

出身地:近江国

生年月日:天文17(1548)年

没年月日:慶長14(1609)年2月18日

家紋:左三つ巴、釘抜き紋

戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えた。

信長亡き後、豊臣秀吉が天下人に駆け上がるのを支えた武将の一人である。秀吉の後継者として関白となった甥秀次の宿老筆頭も務めていた。

天正18(1580)年の小田原攻めの後、秀吉より岡崎57,400石を拝領し岡崎城主となる。

慶5(1600)年、関ケ原の戦いでは徳川家康率いる東軍に属す。戦いに敗れ敗走する石田三成を捉えるなど武功を上げ、家康から筑後32万5000石を拝領、初代筑後国国主となる。筑後入部後は、柳川城を本城に10の出城を構え、国防を強化すると共に、有明海の埋め立てや柳川を網の目のように張り巡らせた水路である掘割(930kmに及ぶ)を整備して国を豊かにした。

殖産振興にも力を入れ、石高を高めるための農業政策を推し進めながら、和紙や陶器、お茶、イ草など地域の産業を育てた。

慶長14(1609)年2月18日、参勤の帰途、伏見の旅亭で死去。

筑後地方では、吉政の功績をたたえ、現在でも「土木の神様」と称す。また、吉政の功績を顕彰する「田中吉政公顕彰会」は、毎年2月、吉政の命日の頃に慰霊祭を執り行っている。

田中吉政年譜

1548(天文17)年 田中重政の子として近江で生まれる。

1585(天正13)年 近江八幡城主豊臣秀次の宿老として3万石を拝領。

1590(天正15)年 豊臣秀吉より岡崎城を拝領。三河国額田郡・賀茂郡5万7,000石を拝領。

1596(文禄 5)年 三河国高橋郡において1万4252石を加増され、所領10万石となる。

1600(慶長 5)年 関ケ原の戦いで東軍として戦う。西軍の大将格・石田三成を近江国伊香郡古橋村にて捕縛。

1601(慶長 6)年 筑後国32万5,000石の国主として柳川に入部。

1602(慶長 7)年 有明海沿岸に「慶長本土居」と呼ばれる防潮堤防32kmの築堤を計画。第1期工事として25キロメートルをわずか3日で築く。

1603(慶長 8)年 従五位下、筑後守に叙任。久留米柳川往還(田中道)筋に土甲呂町・津福町など町立てを進め、諸公役免除。

1604(慶長 9)年 久留米瀬の下に新川開作、舟運をはかる。

1605(慶長10)年 キリシタンに好意を示し、天主堂の用地を寄進。

1607(慶長12)年 柳川を訪れた神父バエスをおおいに歓待し、銀20枚を贈り、天主堂の聖像のために1万2,000バンエを喜捨。

1609(慶長14)年 2月18日、参勤の途中、伏見の旅亭で死去。享年62。葬儀は、京都市黒谷の金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)の塔頭龍光院(たっちゅうりゅうこういん)にて行われた。吉政の遺骸は、金戒光明寺と柳川市の真勝寺に葬られた。

1609(慶長14)年 6月4日、四男忠政が2代目筑後国主を襲封。

参考文献等

『筑後国主 田中吉政・忠政とその時代』(半田隆夫、田中吉政公顕彰会)

『トップの資質』(半田隆夫、箱嶌八郎、宇野秀史、梓書院)

『秀吉を支えた武将・田中吉政』(市立長浜城博物館・岡崎市美術館・柳川市古文書館、サンライズ出版)